「ふーん……」
私は、一枚のはがきを睨み付ける。
文面は、何の変哲もない。知り合いが、海外の観光地から記念の絵はがきを送ってきたものである。どこそこの料理はうまいとか、あそこの景色は綺麗だったとか色々書かれている。
ただ、私はこの手紙が誰から送られたのか知らない。差出人の名前も、見覚えがない物だ。
答えは単純。これは魔術的な暗号文であり、これを目にした人間は解除しない限り本文とは全く別の内容を見せられるのである。解除方法は簡単で、単純に魔力を流し込むだけでよい。
ちなみに、本来の内容は時計塔からの合格通知である。私が差出人の名前を知らないのも当然だ。
時計塔。英国は倫敦に存在する魔術の総本山である。もっとも、協会は日本では基督教と同じく存在自体は知られているが、属している術者は驚くほど少ない……言ってしまえば、マイナーな部類に入るのだが。この国では、大抵の神秘は日本古来の土着組織が幅を利かせているためである。
それでも、遠坂家はちょっとした偶然から、異郷の魔術という理論を先行することとなった。時計塔は、その総本山なのである。父の七光りもあって、これまでも入学は殆ど確定事項であったのだが――これで正式に、来年には時計塔に行けるという寸法である。
まあ、向こうの教育スタイルは日本とは違うので、高校卒業からしばらく経って入学という流れになるらしいけど。その辺りは特に焦る必要もない。どうせ、彼の地に腰を落ち着けるわけでもないし、いずれはこの祖国に帰るわけだから。
それはそうとして、この手紙は一つの難題を私に突きつけて来やがった。
「さて、どうするか」
私は自問する。
倫敦に行くのを迷っている……というわけではない。魔術師にとって時計塔に入学するということは、音楽家が音楽大学に、警官が警察学校に、自衛官が防衛大学校に行くくらい至極当然のことだ。
悩んでいるのは別のこと。私の弟子である衛宮士郎についてである。
実はこの手紙、士郎のことについても書かれていた。
『貴公の弟子である衛宮士郎についても、併せて編入資格を与える』
それは、まるで物のついでに書かれたかのような、とにかく簡潔な一文だった。ただ、それの意味するところは大きい。
「報告書に、アイツのこと書かなきゃ良かったかな」
そんな独り言を呟きながら、しかしそれは出来なかったと内心首を振る。
聖杯戦争が開催される地の管理者である遠坂家には、当然ながら自身が所属する協会への報告義務がある。途中で倒された先代の父はともかく、生き残った自分には当然その要請が協会から来た。そして、協会の恩恵を受け、それ故協会の厳しさを肌で感じている遠坂にこの要請を拒むことは出来ない。
だから、報告書は書くしかない。でも、誤魔化すことは山ほどあった。
士郎、イリヤスフィール、間桐慎二、言峰綺礼、ギルガメッシュ。そして聖杯そのものについてなど、下手に情報を公開できないことばかりだ。
だから、情報を完全に隠蔽して嘘で塗り固めた報告書を提出しようかとも考えた。しかし、協会だって馬鹿ではない。聖杯戦争を監視するくらいはしているはずだ。実際、ランサーのマスターとして外来の魔術師が来ていたらしいし、それ以外にも完全に傍観者に徹して戦争の経過を観察していた人間がいなかったという保証はどこにもない。それに、嘘で塗り固めてもどこかで必ず齟齬が出る。
下手に誤魔化して疑いをかけられば、最悪私は協会に縁を切られるかも知れないし、士郎のことがバレれば彼は封印指定にされかねない。イリヤスフィールの特性にも興味を示すだろう。
私は今の生活が気に入っている。それが壊される可能性がある以上、冒険は出来なかった。
なら、逆転の発想だと言わんばかりに、殆どありのままに書いた。本当に不味い部分は上手くぼかして。幸い、第三回の報告書の写しが遠坂の家に残っていて、どの程度の情報量が書かれていれば協会が満足するかは判ったから、この手法は案外楽だった。嘘というモノは、真実という広い海に沈めて溶かしてしまえば案外判らなくなるものだ。
例えば、敵であったはずのイリヤスフィールを保護した理由については、その体そのものに価値があったため私が研究用に捕獲したということにした。あまり気分は良くなかったが、実際治療目的とはいえイリヤの体を調査しているのだから、本当と言えば本当だ。これで、彼女は遠坂の所有物になるわけだから、教会が彼女に関してちょっかいをかけてくる恐れはなくなる。
イリヤスフィールに殺された慎二については、世間一般で言われている通り行方不明と書いた。死体が発見されているわけではないし、詳しく知っている方が不自然だと判断した。彼がライダーのマスターであったことも伏せて、ライダーのマスターはついに会わなかったことにした。
こんな風に、真実に嘘を混ぜたり、あるいは完全にすっとぼけたりして、途中経過を上げる度に細かいところを嫌らしく突っ込んでくる協会を上手くかわしながら報告書を完成させた。
で、その中でも気を遣った士郎についてだが、当然ながら協力者である彼のことは書かないと不自然になるので、殆ど――投影魔術のことだけ伏せてありのまま書いた。
実際、協力して敵を倒したのはバーサーカーのみで、他は情報のやり取りに終始していたから、聖杯戦争に関してのことだけならさして記述することはない。
単純に、モグリの魔術師だった衛宮士郎がマスターとなり、バーサーカーに対抗するため私と手を組んだ。彼と一時的に師弟関係になったことも、情報に対する等価交換の原則に沿ったものとした。実際、そうだし。
その後、士郎はセイバーと共にライダー、バーサーカー、キャスターを撃破して聖杯へと到達。それを横取りしようとしたギルガメッシュと言峰の存在についても素直に書いた。しかし聖杯は呪いの塊という紛い物であったため、セイバーの宝具によって破壊したということまで。そして、戦争が終結してからは、遠坂の保護下にあると説明してある。ちなみに、セイバーの正体についての説明は英国の片田舎の騎士とした。セイバーは不満かもしれないが。いや、士郎を守るためと納得してくれるだろうか。
士郎にも、協会に話すことについては了承を得ているし、出すモノは出して貰っているから保護下にあるという言葉も嘘ではない。
ふと、右手の中指を見る。そこには、小さな深紅の輝きがひっそりと存在していた。これが、アイツからぶんどった授業料。
その赤い光に何となく心が浮き立つのを感じながらも、頭が痛い問題は無くならない。
協会にとって、聖堂教会とも縁があり、多大な功績を残してきた遠坂とは事を構えたくないはず。それに、聖杯はあくまで純粋な無限の力を持つからこそ注目に値すべき物。破壊という一定方向のベクトルしか持たず、制御など夢のまた夢という正体が判明した以上、協会もこの戦争に興味を失っているはず。だから、さしたるお咎めは無しと踏んだ。
実際、こうやって完成させた報告書に協会は納得したのか、彼らが詰問してくることはなかった。
士郎がモグリという点も、今は遠坂の庇護下にあり、私が責任を持って管理するということで納得させた。イリヤスフィールに関しても、遠坂の庇護下に置くことを了承させた。間桐家に対しても、特別な処置は無し。
だから安心していたのだが……まさか、こういった形になるとは。
「はあ……」
溜息をつきながら、手紙を無造作に放り出す。頭の痛すぎる問題だ。
衛宮士郎。
弟子だから遠慮無く言うが、そりゃもうアイツは「へっぽこ」である。アイツが魔術師だと知り、さらには魔術の腕を見てとっさに頭に浮かんだ単語だが、これほど彼を端的に表す表現はないだろう。
報告書にも、半人前の魔術師だと記述した。魔術刻印も持たず、強化や投影など極めて効果が限定された魔術の行使しか出来ないと。
だが、世の中上手くいかないものだ。それが、逆に協会の気を惹いてしまったようだ。その程度の魔術師にも関わらず、英霊を使役し、さらには遠坂やアインツベルンをも降して勝者となった彼に、彼らは僅かながらも注目したらしい。
元々士郎がたいした魔術師でないということを報告書に書いたのは、協会が士郎に対して必要以上の興味を抱かないようにというのが理由だった。
それがこんな形で裏目に出るとは。正直、いくら聖杯戦争の勝者とはいえ士郎に着目するとは想像していなかった。だが、それがどれだけ小さな物でも、可能性があるなら考慮しておくべきだった。完全に自分の落ち度だ。
別に、倫敦に行くことが厄介なのではない。私も時計塔に行く際、弟子として士郎を連れて行こうかどうか迷ってはいた。だが、それはあくまで特待生遠坂凛の弟子としてだ。それだと、試験も学費も無しだし、協会に所属しているようで所属していないという士郎にとっては居心地の良い曖昧な立場も確保できる。
でも、協会から直接士郎が招待されるとなると話は別だ。一応、私の弟子であるということで協会とは話を通してあるから師弟関係が破壊されるわけではないが、これだと士郎は時計塔に行ったとき、正式に学徒となる。普通に私の世話人として連れて行くより協会に近づくから、士郎の特異性を隠し通すのはかなり厄介になるかもしれない。
士郎の魔術の、あの異常性。それを知った魔術師がどのような行動に出るかなど、簡単に想像できる。
自分でも思いついたのだから、本場倫敦の魔術師ならば、それこそお腹がすいたからご飯を食べるというくらいに自然に士郎を捕縛して幽閉するだろう。何せ、今のままでも無茶をすれば宝具を投影できるなどという規格外の魔術師なのだから。
彼が創り上げた投影品を見る者が見れば、彼の本質を看破するだろう。
そうなったらお終いだ。その後の彼に待っているのは、人体実験の材料としての半生だけとなる。
……気が滅入る。遠坂の庇護下にある魔術師として連れて行けば、協会とも距離が取れてこのようなことに頭を悩ませる事も少ないのだろうけど。まあ、やってしまった現実を覆せるわけではないし仕方がない。士郎に直接ではなく、遠坂に対して士郎への招待状を送りつけるところをみれば、教会は衛宮士郎が遠坂の直属であることを理解してくれているようだ。それが、救いといえば救いだろう。それに、逆に考えれば士郎により多くの魔術を得られる機会が与えられたとも言えるし、まるっきり悪い話というわけでもない。まあ、リスクは高いけど――
「よっ」
活を入れるように、一声かける。
そもそも、士郎にはまだ倫敦に行くかを聞いてすらいない。行くことを前提に考えても無意味、今は保留しておこう。それよりも、まずは無理矢理にでも連れて行かなければならない人間がいるのだから。

「倫敦?」
「そうよ。貴方の体は定期的に調整しないとすぐにボロボロになっちゃうからね。日本や英国の役所への届けやら協会への手回しやらは私と神父さんとでやったげる。だから、死にたくなかったら私と一緒に倫敦に来なさい。いいわね?」
休日、いつもの診察のために遠坂邸を尋ねると、有無を言わさず用件だけをさっさと告げられた。遠坂凛が、そういうせっかちな性分だと言うことは知っていたけど。
一応、疑問系で尋ねられはしたものの、その口調はほとんど断定だ。リンは、私に断られることなど微塵も思っていない、いや、断らないと確信していると言える。それは、間違っていないから、二つ返事で了承した。
「判った」
そんな私の反応に、リンは微かに目を見開いた。
「意外ね。もっとごねるかと思ったけど」
「行くわ。その事について反対はない」
「そう。じゃ、その辺りの根回しは任せといて」
彼女は私があっさりと即答したことに驚いたみたいだけど、私にとってはリンがそんなことを言い出したことに驚いた。このお人好しが私を見捨てることはあまり想像が出来ないけど、彼女にとって私は、週に一度、五時間近くの時間と大量の魔力を消費させる『重荷』だ。
だから、何とはなしに尋ねてしまう。リンにとって、自分は明らかに負担であるのだから。
「でも、良いの?」
そんな私の疑問はとっくにお見通しというように、リンはこちらを見もせずに言い放つ。
「別に? アインツベルンのホムンクルスなら、魔術の実験とかに丁度良いし」
その言葉は何でもないようでいて、暖かみとか同情とかが僅かに含まれ、さらに冷たさや嫌悪も同程度に含まれていた。だから、結局私は納得した。彼女が納得していることを、私がどうこう言うことでもないからだ。
確かに、私に否やは無い。協会の本拠地に行くなど想像するだけでもおぞましいけど、リンがいなければ彼女の言葉通りこの体はすぐに朽ち果てる。聖杯戦争が終わった今、わざわざ好き好んで死ぬ意義もない。死ぬことが怖いとは未だに思えないけど、士郎が悲しむ姿は見たくないから。
この体は、他の魔術師には扱えない。魔力の移し変えに代表される流動・転換などを得意とする遠坂の魔術師で無ければ、この身の崩壊は防げない。それ以前に、彼女以外の魔術師に体を弄られるのはごめんだ。癪に障る部分はあるけど、それにも増して信頼に足る人物なのは間違いない。
「じゃ、お世話になるわ。正直、これから何年も貴方と顔をつきあわせるとなるとウンザリするけど」
「それはお互い様よ」
さて、これでこの件は帳消しだ。正直、この身が遠坂凛にとってどれほど価値があるのか何て判らない。でも、彼女がこれで良いというなら、私もその言に従おう。
さて、納得してしまうと、幾つかの問題点が頭をもたげる。物のついでだ、訊いてしまおう。
「でも、どうするつもり? アインツベルンのホムンクルスの私が協会と関わりを持つとまずいんじゃないの」
「貴方の事は、私の魔術の実験道具って事にしとくからちょっかいは出されないわ。遠坂の完全な所有物だから、怪しいモノでなければ協会は干渉できないわ。遠坂と事を構える気が協会に無い限りはね。何せ、うちは魔術協会とは犬猿の仲のはずの聖堂教会とも縁があるくらいだし、アインツベルンくらい今更今更よ。まあ、実験道具なんて物扱いされて気分は悪いだろうけど我慢なさい」
つまり、私は名目上、遠坂家の所有物になるわけか。確かに気に入らない立場だけど、他に良案があるわけじゃなし、受け入れよう。
「じゃ、アインツベルンは? こんな辺境の土地ならともかく、英国なら近いし。下手したら誘拐されるんじゃないの?」
「それこそ杞憂よ。魔術協会のお膝元で、魔術に関するドンパチなんてそうそう起こせないわ。それこそ、協会を黙らせるくらいの実力がないと」
確かに、常識で考えれば彼女の言う通りだけど――アインツベルンにそんな常識など通用するだろうか。まあ、考えたところで倫敦に行く事を辞めるわけにはいかない私に有効な対策が取れるわけでもない。
考えても仕方がないだろうことなのだけど、だからこそ得体も知れない不気味さを感じる。杞憂であることを祈るしかない。
そんな私の内心を察したのか、妙に明るい声で凛は笑った。
「まあ、心配することはないでしょ。連中は、どうせ次の聖杯戦争に備えて準備に取りかかっている最中でしょう。既に離反した壊れかけのホムンクルス一体のために割く人手なんて無いでしょう」
「まあ、そうだけど」
私は思わず口籠もってしまう。自分では余り自覚してないけど、やはりまだまだ自分がアインツベルンから離れていない証拠か。私にとって、アインツベルンこそが世界。その軛から逃れていないから、未だにアインツベルンが私を連れ戻すのでは――連れ戻してくれるのでは――ないかと思ってしまう。
居心地は良いと冗談でも思えないけど、それでもアインツベルンの生活こそが身に馴染み、衛宮邸で過ごしている時の自分にはどこか違和感を感じてしまう。
いつだったか、この感覚をリンに相談したとき、彼女はこう言った。
「ま、いいわ。昔から植え付けられた概念をそう簡単に変えるなんて出来ないしね。貴方は昔から、聖杯として教育されたわけだし、その感覚を捨て去ることは容易じゃないでしょう。この辺り、要矯正ね。ま、そう身構えなくてもいずれ慣れるでしょうけど。人間、どんな環境にだって案外あっさりと適応しちゃうもんよ」
……気楽に言ってくれちゃって、と多少の反感を覚えたけど、私としてもこんな下らない感情は早々に捨て去ってしまいたい。確かに、彼女なら本当に矯正してしまいそうだ。この件に関してのみだが、その強引な手腕は心強い。
「……宜しく頼むわね。リン」
その言葉に、彼女は微かながら頬を赤くする。まったく。こんなだから、信用してしまうのだけど。
診察は終わった。特に身体に異常は見られないと言うことだったが、油断は出来ない。自分に限らず、ホムンクルスの肉体というのは総じて不安定だ。
「いつも言っているけど、体に違和感があったらすぐに言うこと。気のせいとか思わずにね」
「うん」
今のところ、この体に大きな不具合は出ていないけど、油断は禁物だ。自然、リンの口調にも真剣味が帯びる。
「ま、その辺りのことは嫌ってくらい判ってるでしょうけど。倫敦に行くのも決まったんだから、そのためにも藤村家の人間を説得してね。難しいとは思うけど」
「判ってるわ」
暗示を使えば楽なのだろうが、それをするとシロウが怒るから実行はできない。仕方ないか。
まあ、あの規格外のライガやタイガは、私が海外に行く事も割とあっさりと許してくれるような気もするが。というより、本来は赤の他人である私を平然と招き入れた家だ。その辺りの事情は聞かずとも、真剣に頼めば察してくれるような気がする。
……いずれは、きちんとあの家を自分の家だと思える日が来るのだろうか。でも、それこそ考えても仕方ない。感情の問題なのだから。
さて、残りの疑問はあと一つ。彼の事だが――
「そういえば、リン。シロウはどうするの? 貴方は連れて行きたいのかもしれないけど、シロウが承諾するかどうかは分からないでしょ」
「それなのよね。どうしたものか……」
リンは、頭を抑えた。本当に頭痛でもするのか、と思うくらいに顔を顰めている。
「確か、倫敦行きの事はシロウにまだ話してなかったんだっけ」
「ええ。まあ、そろそろ言わないと駄目なんだろうけど。学校でも、進路を決定しなくちゃならない時期だし」
なら、早く言えばいいじゃないか、などと無粋な事は口にしない。それは、私がライガやタイガにも、倫敦行きを一切話していないのと同じ理由に起因するものだろうから。人の事は言えた義理ではない。
でも、端から見ていて面白い事でもない。シロウを手に入れるのなら、この程度の事くらいは笑って乗り越えて貰わなければ、待っているのは無惨な未来だろう。
アーチャーが自身に取り込まれ、聖杯としての機能を持ち始めたときに垣間見た記憶。一瞬だけ瞼に浮かんだ、剣に串刺しにされた誰かの身体。未だ信じられないが、アレが再現されるなら座視は出来ない。
出来れば、悲劇の芽は自分自身の手で引き抜きたいと思っていたけれど、長く生きられない可能性が大きいのなら、せめて一番可能性がある彼女に賭けようとはずっと前から思っていた。
「まったく。ちょっと投影が上手くなったと思って、勝手に一人で練習したりするんだから。料理だって車の運転だって魔術だって、慣れ初めが一番怖いってのに、師匠の言いつけを無視して」
いつの間にやら、リンの言葉は愚痴に変わっている。素直ではない彼女の、自己への言い訳なのだろうけど。
それに、何となくムカついたからだろう。グズグズしている彼女に、ちょっと発破をかけてみようかという気になったのは。
少なくとも、こういう言い訳じみた言葉は照れ隠しと分かっていても、私からすれば聞いて愉快なものではない。まあ、シロウを諦めたのは自分の勝手と言えば勝手だし、彼女には知る由も気にかける理由もない。それでもだ。
というわけで、ちょっとだけ押してみる。これで、駄目なら……
「まあ、好きなら好きときちんと言うべきよ」
「うん、そうね。好きなら好きときちんと意思表明を……」
ここまで言ってから、彼女はギョッとした顔で私を見た。多分、幽霊を信じていない人が実際に霊を認識したらこんな顔をするのかもしれない。
何となく、愉快だ。
彼女は、眼を見開いたかと思うと、次にせわしなく動かし始めた。その様は、まるで小動物を連想させる。はっきり言って、彼女のイメージではない。だからこそ、新鮮で面白い。
たっぷり数分はしたばたしていただろうか。怖々と、リンは口を開いた。
「……い、いつから?」
「バレてないと思ってたの。だとしたら笑えない冗談ね。シロウのあの鈍さが標準だとでも考えてたの」
確かに、シロウ相手なら余程露骨にしても気付くことはないだろうけど。彼はもうちょっと周りを気にした方が良いかとは思う。
「で、どうするの。私としてはシロウと一緒に行きたい。いえ、シロウと一緒じゃなきゃ嫌だから、リンがシロウを説得してくれることには賛成ね」
「……貴方は説得しないの?」
「するわよ。でも、まずはリンのお手並みを拝見するわ」
その程度の事も出来なきゃ、シロウを任せるなんてとんでもない。でも、どうなることやら。
「……そうね。まあ、早く話さないとね。確かに。方法とか手順は以前から考えているんだけど」
そういって、いきなり考え込む。
「ま、あまり焦ることでもないわよ」
……駄目だ、こりゃ。この期に及んでまだこれか。
まあ、遠坂凛がこれまで誰かに恋心を抱いた事があるなんて想像できないし、無意識に考えすぎて後手に回るのも仕方はないのだが。
しかも、事は単なる頼み事ではなくて、士郎自身の環境が激変する大事だ。二の足を踏んでしまうのも無理はないだろうし、焦ってご破算にでもなってしまえば目も当てられない。
それに、リンのことだから、彼女なりの考えは持っているはずだ。多分、彼女の頭ではどの方法が一番可能性が高いのかを検討しているんだろう。リンの、そういった考えも間違いではない。
それでも、あまりグズグズしていると期を逃す気がする。尤も、これは多分に私の焦りなのだろうけど。
「……」
せめてこちらから一言くらい忠告してやっても良いのだけど。
このまま、あっさりとシロウをリンに取られるだけというのも面白くはない。というより、一線を退いた私は言わば隠居の身だ。シロウの相手をリンに限定する必要も無し。もう一人の方もけしかけてしまおう。
彼女はリンに比べて、かなり頼りないけれど、健気さでは間違いなくリンより上。どちらも、シロウが幸せになれる可能性はあると思う。
シロウが幸せならば、ソレで良し。その可能性が上がるなら、実行してみて損はないだろう。リンからすれば邪魔にしかならないだろうけど、知った事ではない。

「というわけなんだけど」
話し終えて表情を伺うと、サクラはこの世の終わりでも来たかのような顔をしている。
「……」
「別に気付いてなかったってわけでもないと思うけど、つまりはそういうこと。グズグズしてると、明日にでもリンにシロウを奪われちゃうわよ」
あのどこかのんびりとした様子だと、リンが行動を起こすのにかなりかかりそうだけど、ここは敢えて嘘を吐く。これくらい焦らせても、サクラが行動を起こす確率は五分五分だ。
実際、今までもリンがシロウと一緒にいるところを見ていても、俯くか無理に笑って誤魔化すかして内心の妬みの感情を隠していた。
これまで数ヶ月付き合ってきたけど、私にとって間桐桜という少女の立ち位置はかなり曖昧だ。私自身と肉体の構造が似通っているため基本的に反発してしまうのだが、性格的にはと言えば寧ろ好きな部類に入る。
穏やかな部分も、ちょっとだけ暗い部分も、偏執的なアインツベルンに長年いた私からすれば、新鮮なモノだった。偏屈な魔術師だけが住んでいる故郷に、彼女のようなのんびりとした少女などいなかったから。
だから、本来なら反発する存在でも嫌えないのかもしれない。
「……で、どうするの?」
とうの昔に気付いていた。私だって、そこまで馬鹿でも間抜けでもない。
「ええ、これはわたしと士郎で決めた事よ。家主である士郎が同意したんだから、もう決定事項なの。この意味、わかるでしょう? 間桐さん。今まで士郎の世話をしていたみたいだけど、しばらくは必要ないって事よ。来られても迷惑だし、来ない方が貴女の為だし」
頭に中に未だ木霊するあのときの声。まさか、あの人とこの家で出会うなんて想像すらしていなかった。初めて、この家でその姿を見た時、冗談ではなく頭を金槌で殴られたかと思った。
あの人と先輩に、接点なんて有り得ないはずだったのに。
確かに、先輩は魔術師だけど、管理者である遠坂に届け出てもいない上、そもそも魔術師という物がどういった物なのかを誤解している節さえある。少なくとも、彼の在り方は到底魔術師として認められないものだ。
遠坂先輩にしても、特に目立ちもしない男子生徒など歯牙にも掛けない。かつて、男子生徒の告白を断ろうと屋上のフェンスを乗り越えた、なんて噂を持つような人だし、それでなくとも男子からの告白は全てすぐに断るという話も良く耳にした。
それが――どういうわけだか、先輩に対してだけは違う。
甲斐甲斐しく世話を焼き、朝はわざわざ時間をずらしてまで一緒に登校して、学校でもお昼を一緒に食べているようだし、さらには家に遊びに来たり。
ちょっと前までは……あの人は、おそらく先輩の家の場所だって知らなかったはずだ。私が、一番近かったはずだったのに。
どうして、どうしてと自問しながら、でも悩んでも現実なんて変わるわけでもなく、今に至る。あの人は先輩の部屋にも無遠慮に上がり込んでいるし、恥ずかしげもなく体を密着させ、手料理を作っては食べさせて――
最近、先輩といる時間が随分と短くなったような気がする。いや、時間的には短くはなっていない。衛宮士郎の日常は、以前と――聖杯戦争前から変わらず、朝早くに起きて食事を作り、学校に行き、家に帰るなりバイトに励むなりしてから、衛宮家で夕食を作っている。
私の衛宮家での行動も変わっていないので、先輩と共に過ごす時間に変動はない。しかし――それでもなお、体感的に短く感じるのは、やっぱりあの人の存在のせいだ。
彼女は労せずに、先輩の傍に居場所を作ってしまった。
学校では、同級生として。家では友人として。そして、おそらく夜は魔術師の師として――その全て、私自身が望んでも得られない場所だ。そして、望もうともしなかった場所だし、望んでも絶対にかなえられないと理解していた場所でもある。
そもそも、現状でさえ自分には過ぎた物である。優しいあの人は、私の事も全く警戒せずに接してくれて、暖かい眼差しを向けてくれて、それだけで十分すぎたのに。それだけで、満たされたのに。あの人は、その程度のことさえも見逃さずに奪っていってしまう。
それは――嫌だ。当たり前だ。
何で、あの人があの人を奪っていくのか。何で、あの人があの人についていくのか。
そんな理不尽な事が許されるのか。そんな理不尽な思いを抱けるのか。
どうして、どうして勝手に奪っていくのか。奪われるのか。
複雑すぎる感情は、支離滅裂で。頭の中で千々に乱れて自分でも何が何だか判らなくなって――